“存在感”はどういう時に得られる?
普段仕事上、子供らと接する事が多いですが、子供がやる気を出すのはどのような時でしょうか?
どうしたらやる気を持続させながら、日々を活き活きと凄し、あらゆるものに興味を持って自発的に学習するようになるか?
そんな事が教育者としてのテーマです。
私の考えでは、その1つのキーワードが”存在感”です。
1人1人の個性が大事と言いつつも、沢山の人間の中では個性は埋もれてしまいます。
自分の事が分かった時、褒められた時、できることが増えた時、あらゆる場面で自分自身の事をリアルに感じることができます。
そんな時、子供らはすごく楽しいと思いますし、私もそうですね。
存在感を感じさせて上げることがとても大事だと思います。
“競争社会”が作られる秘密は”脳のクセ”にありました。
前回の続きを話します。
ある人との出会いとは、Noh jesuです。
最初はブログがきっかけでした。
この方のブログの文章を読んで、何かが違うと思ったんですよね。何か普通の人とは違う視点を持っているって。
だから説明会やセミナーに参加し、その秘密を知ろうとしました。私がいつもいつも疑問に思っていたことの答えがありそうな気がしました。
最初に印象に残ったのは、”脳のクセ”というものです。脳のクセ?なんだそれって思いました。説明を聞いても、最近はふーんという感想でした。
しかし学んでいくうちに、競争社会に対する疑問と、この脳のクセが繋がったんです。この時の衝撃は忘れません。あーっ!という感じです笑
ここでは詳しく説明しませんが、簡単に言うと、格差を作り競争を生み出す原因は脳機能の特徴であり、そこに縛られてしまうことを観点の問題と言っていました。脳に囚われているという表現もできます。
なるほど納得。でどうすれば良いのか?
そこからさらに凄いのは、そしてその脳の機能的限界、観点の問題を解決する技術を体系化し完成させていたことです。その技術をntechと言います。
それが解決できるのであれば、本当にすごい。なら是非とも学びたい。それで継続的に本気で学ぶ事を決断しました。
そこから先は、学べば学ぶほどに、いかに脳のクセに囚われ、自分を制限していることに気付き突破していく日々です。今もそうです。そして突破する度に、興味の範囲は広がり、学習意欲、チャレンジ精神が沸々と内側から溢れるようになっていきました。
そして、なぜ世の中は競争社会であり、人はいつもその競争を強いられるのか?という疑問の答えも得ることができました。
ならば、これまでの社会とは全く違う、脳機能の限界を突破した人達が作る社会を見てみたい。今はそういう思いで活動しています。
私だけでなく、今後多くの人とntechを共有し、新しい社会創りを楽しんでいきたいと思っています。
大学生の頃、どうして世の中は”競争社会”なのか?と思いました。
こんにちは。
今日は私の過去と今とこれからについてこのブログで語っていきます。
私は4人兄弟の末っ子長男として育ちました。
姉とは年が離れており、一緒に遊んだりするよりは1人でゲームをするのが好きな子供でした。姉からはとても可愛いがられましたが、当時の私にとっては可愛いがられたり、からかわれたりすることは、なんだか見下されてバカにされている感覚でした。とは言っても口でも腕でも勝てないので、1人で黙々とゲームしている方が楽だし楽しかったです。
5歳の頃に交通事故に会いました。左足を車に轢かれてしまい、手術を4回以上して、なんとか歩いたり走ったりすることに支障はなかったのですが大きな傷跡が残りました。これもその当時はショックが大きく、誰にも左足を見られたくない羞恥心と劣等感を大きく感じたのを覚えています。
そんな経験もあって、私はとにかく人に見下されたり、バカにされたりすることが本当に嫌でした。小学生の時などは、なんでこんなに人は人の事をバカにするのかって疑問でした。だからこそ、勉強や運動の努力をしなければならないと頑張ってきました。
そうやっていつも生きてきて、大学受験に失敗した時も、自分の実力はこんなものではないと認めず、浪人して勉強のみを全力で頑張りました。大学に入っても部活動を週6で頑張って、就職活動の時も最も厳しいとされるところへ面接に行き、内定を貰いました。
でも努力こそが正義だと思って頑張っても、疲れてしまって結局怠けたり、体調を崩したり、そんな自分はダメだと自分を責めたり、それで悩んでしまって動けなくなりました。本当に時々結果が出るときはあるけれど、なんでいつもこんなに上手くいかないのか…て思ってました。
私は大学卒業時、就職せずに大学院に進学しています。就職活動の時にそのきっかけがありました。中学生に入れば、受験の競争が始まり、大学に入れば就活の競争、社会人になっても生存競争はずっと続きます。なんで世の中はこんなに競争社会なんでしょうか。それが大学3年生の時の疑問です。
なんで、いつもいつも人と差をつけて、自分が優位に立つための競争を全ての人が強いられているのか?それが物凄い違和感だったんです。だから、それが大学院になった私の重要なテーマでした。
大学院に入ってから、私は座学だけでなく多くの人と会うようにしました。色んな境遇の学校の外側にいる人の話しをたくさん聞きたかったんです。しかし調べるなら調べるほど、多くの人の話しを聞けば聞くほど様々な意見があり、本当なのか嘘なのか、何が正しいの間違っているのかも分からず、ただただわからないことが増えるだけでした。
そのうち、あまりにもわからな過ぎて、もう考えること自体が嫌になり、ずっとボーっとしている状態が続いていました。大学院1年生の終わりには、何事もやる気が起きない無気力状態で、全てがどうでもいいと思っていました。ずーっとこの状態が続くと思うと凄い絶望感を感じて、ただ起きて寝ての繰り返しをしていました。
しかし、その状態がずっと続くことはありませんでした。ある時に、ある人と出会って転機が訪れました。
続く
価値が無いのか、価値を感じることができていないのか。
Q.人間が認識活動を行う際に使う道具とは何か?
A.脳と身体
この脳と身体を使うというのは、当たり前過ぎるように思うかもしれませんが、普段”使ってる”意識はほとんど無いと思います。
使うのが当たり前、そしてそれを使って判断したものは絶対正しいと思い込むのが人間です。絶対正しいのなら、その脳と身体は完全な道具ということになりますね。
いやいや、そんな事はありません。
脳と身体にも機能的な限界はあります。
その限界を意識化することなく、ほとんどの人は仕事や日常生活を送っています。
その結果どうなるかというと、1人の時は自己否定、人といる時は他者否定、組織に属せば環境否定で忙しく、いつも疲れ、不安とイライラでいっぱいになっていきます。
私は学生の頃、社会に対して何も貢献できていない感覚、必要とされていない感覚、社会と繋がっていない感覚に苛まれ、激しく自己否定をしていました。人と会えば、相手のできていない所に目がいって否定し、相手と比較して自分を否定し、こんな環境を作り出している社会を否定していました。いつも否定ばかりしている生活は非常に苦しく、最終的に病んでしまい家に閉じこもりました。
自己否定は止めようと思って止められるものではありません。どうしていつもこうなのか…そう悩んでいた時に、ある人と会って原因を理解することができました。その原因は、前述した脳の機能的限界でした。これまでそこに対して問題意識を向けた事がなかったので、当時はかなり衝撃的でした。
脳の認識はとても部分的で、全体を認識することが苦手です。価値が無い、そう思ったとしても、その無いという判断をした脳そのものを疑う視点が必要です。それは価値があるけれども、認識できていないだけかもしれません。
脳と身体はいったい、どこからどこまで認識することができるのでしょうか。
そういった事をテーマに考えてみましょう。
何も考えない、何も感じない、何も解析しないってどういうのとだろう。
こんにちは!
今日は無思考、無感情、無解析について考えてみようと思います。
正しい思考とは何なのか?って考えて探していれば、様々な思考方式に出会います。
それが正しいのか、間違っているのか、使えるのか使えないのか、そういうことで悩みますね。
ただそれだと、思考そのものが有る状態の事のみに意識が集中します。思考が無い状態を意識してみたことはありますか?
無思考とは何かを考える…
矛盾してますね。
でも思考が有るのであれば、思考が無いことも有ると思います。
無思考なのだから、悩みなど一切生まれようがありませんね。
そんな境地の状態を日常でいつでも再現できるのだとしたら、人生はグッと楽になります。
本当の意味での休むとはそういうことですよね。
現代で大事なことは休むことです。
思考が忙し過ぎて、いつも疲れています。
だから、いくら働かなかったとしても疲れが取れることはありません。
そんなような状況を生き抜く術が必要なんです。
社会システムの完成と、新しいことの挑戦
こんにちは!
今日は社会システムと、新しいことの挑戦というテーマで書いてみようと思います。
私はいま20代ですが、私達の世代は社会システムが完成された後の世代という風によく聞きます。
だから、その完成されたシステムにいかに順応するかが教育のポイントになります。
戦後すぐの時代とよく比較されますが、その頃は何もなかったからこそ、新しい社会システムを構築することに情熱が注がれていました。
若者世代というのは、新しい社会システムを構築する必要が無いので、クリエイティブが弱ってしまったと言えるかもしれないですね。
ですがいまこの現状を見てみた時に、明らかに日本のシステムには限界が来ていることが伺えます。世界と比較すればまだ安定感があるように思えますが。
ということは、古いものに成りかわる、新しい社会システムが必要ということになります。
だからこそ新しい挑戦が必要になります。
その役割は、これまで頑張ってシステムを構築してきた世代ではなく、新しく生まれ、システムの不条理を一身に受けてきた若い世代が担うのが自然なように感じます。
若者はいま既存の産業を守ることよりも、新産業を起こすことが最も重要と言えます。
攻めの時代ですね。頑張りましょう!
未来から観た尊厳ストーリー
2019年5月1日
日本は元号が変わり、令和時代が始まった。
深刻な人手不足に悩まされている日本は、外国人労働者の大量受け入れと、ITによる効率化によって解決を図った。
教育レベルにおいて遅れを取る日本は、国家間の教育格差が大きく、優秀な外国人が日本人に代わり始める。
人材を募集する側は、口が達者で、社会や会社に不平不満ばかりの日本人よりは、日本語が下手でも、健気に努力する外国人の方を選択し始めた。
それに追い打ちをかけるように、テクノロジーは人の仕事を効率化するどころか、代替し始め、人間でないとできない仕事は減り、仕事が急速に制限されていった。
人手不足は解決されたが、今度は仕事不足が社会問題になった。
「あなたはもういらない」突如として、不要宣告を受けた人達は激昂した。
これまで散々こき使ってきたくせに、要らなくなったら捨てるのか!!
社会的不要宣告によって、デモ、鬱、自殺者が続出してしまった。
大量に生まれてしまった無用者階級は、ベーシックインカムによって保障されたが、財源が不安定で脆弱なこのセーフティーネットは持続不可能だった。
海洋汚染、大気汚染、は深刻になり、天然物というものは消滅した。あらゆるものが人工物になり、魚は養殖魚しか食べられなくなった。
内分泌かく乱物質である環境ホルモンが増加し、それに伴って発達障害の人間も増加した。テクノロジーは便利さをもたらしたが、同時に人間の思考力の低下ももたらした。この2つの要因と共に、人間機能の低下は著しく、現行の教育体系では対応が不可能だった。
その結果、不感症サイコパスは激増し、鬱自殺者が大量発生した。
激化する天変地異によって命を落とす者、自律型致死兵器システムによって殺されてしまう者、サイコパスによって殺されてしまう者、ドラッグに傾倒する者、VRに没入する者が後を絶たず、様々なケースはあれど、人間の尊厳を喪失した社会となってしまった。
しかし…
日本から人間機能を飛躍的に発展させる新しい技術が誕生していた。
それは薬やITテクノロジーによるものではなく、論理とイメージで実現する技術だった。
その技術によって人間機能を発展、進化させることができた人間は、これまでなかった、人間にしかできない仕事、日本人だからこそできる仕事を次々に生み出した。
そして人間の社会的価値を復活させ、仕事不足の問題を解決していった。
観点を自由自在に変化•上昇させることができるようになった彼らは、物事をより深く本質的に、より多様で多角的に、より広く俯瞰して観察する認識の力を獲得した。
その結果、人間と人間同士の理解、共感は深まって団結し、社会問題に対して熱情を持って解決に取り組み始めた。
その繋がりは男女の違い、思想の違い、民族の違い、国家の違いを超えて、世界中で広まっていった。
どのような人間だとしても、人間機能を飛躍的に発展させることができるその技術は多くの人間を救っていった。
その技術を開発した1人の男は、20年以上前から、このような社会問題が起きることを予測し、その問題を解決できる技術を開発し続けていた。
「人間こんなもんじゃない」と言い続けていたが、当時は誰にも理解されることがなかった。
しかし、実際に人間が変化していく様を見て、誰もが理解せざるを得なくなった。
人間が団結する毎に、社会問題は一掃されていった。
進化した人類は、宗教、民族、国家に拘り対立することをやめて、地球人として、宇宙人として人間同士が繋がり合い、1worldは実現し、世界平和が成し遂げられた。
子孫に問題だらけの負の遺産ではなく、平和な日常を残すことができたこの時代の人達は、後の世代の人間から深く尊敬された。
人間の尊厳復活ストーリー♪
以上です(^^)